本当の優しさとは強さを伴うものです。
なぜなら強くなければ本当の優しさを発揮することはできないから。
「強さを伴わない優しさ」は、優しいというよりも弱いという言葉の方が意味的には近くなるのです。
強さがない優しさは弱いだけ
たとえば、学校で誰かがいじめられている状況においては、弱いだけの優しさでは、積極的にその状況を改善していくことは難しいですよね。
大体の人は自分がいじめの対象に巻き込まれることを恐れて、傍観してしまうわけですから。
そうなってしまうのは、いじめられている人に同情するという優しさがあったとしても「でも自分は巻き込まれたくはない」という弱さがあるからなのです。
もしかしたら、いじめられている人に同情するという優しさすら持たない人もいるのかもしれません。
いずれにせよ、積極的にいじめという「悪」と戦っていくほどの強さと優しさを持っていないのです。
このように弱いだけの優しさでは、積極的に平和な状況をつくっていくことは難しいのです。
実は大人になっても変わっていない
こういう状況というのは、実は大人になってもあまり変わっていなかったりします。
私たちは年齢を重ねていくうちに「そういった出来事は、はるか昔のことであって、今は違う」などと考えていたりするのですが、実は無駄に歳を重ねただけであって精神的にはあまり変わっていなかったりするのです。
学生時代は周りに合わせようとして、合わせることができない状況(たとえばクラスでぼっちになるとか)を避けようとしていたでしょう。
そして大人になっても社会や常識といったものに自分を合わせようとしているはずです。
そこからはみ出ないようにしているはずです。
実はその発想がすでに「正しさの基準を自分の中に持てていない」という証明になっているのです。
だからこそ、そういう人はまた同じ状況になったとしても同じように見て見ぬ振りをするでしょう。
同じような状況にならないから自分は成長している、などと錯覚しているだけなのです。
無駄に年齢を重ねただけであって、精神的には大人になりきれてはいないのです。
そうならないために必要なこと
こういう大人にならないためには、自分の中に価値基準を持つ必要があるのです。
そしてその通りに生きる、という強い思い、意志が必要なのです。
これがなくて、ただ常識から外れないことだけを考えて社会に適応しているような人は私から見れば、いじめを傍観している人と同じ。
精神的には学生時代の頃から何も変わってはいないのです。
こうならないようにするために必要なのが本当の勉強なのです。
しかし学校ではそういう勉強は教えてはくれません。
だから自分で勉強をしていく必要があるのです。
本当の勉強をしなければ、学校に適応するのと同じように、社会にも適応しなければならない、という発想になってジリ貧になっていくだけになります。
今の社会が10年後も同じ価値を持っているかどうかもわからないのに、です。
だからこそ、自分の中に価値基準を持たなければいけないのです。
自分の中に強さと優しさを伴った価値基準を。
そして今度同じ状況になった時に、同じ過ちを繰り返さないように、
ただの傍観者にならないために。
自分だけの平和を守るのではなく、自分ではない他人の平和をも守れるように。
それが大人になる、ということであり、本当の優しさ、強さを伴った優しさになっていくのです。