なぜ学校に行かなければならないのか
そもそもの話として、なぜ学校に行かなければならないのでしょうか。
子供側からしてみれば「親が学校に行け」と言うからとりあえず行っている、というのが一番大きな理由だと思います。
では親は「なぜ学校に行かなければならないのか」という答えを知っているのでしょうか?
おそらく多くの親の答えとしては、
- 勉強するため
- いろんな人間と出会うため(友達を作るため)
- 他人とのコミュニケーションを学ぶため
- 社会性を身につけるため
- 将来のため
というような漠然としたものだと思います。
ただこれは建前であって、多くの親はその答えをはっきりとは知ってはいないと思います。
- 自分も学校に行っていたから
- それが普通だから
- 他の親も子供を学校に行かせているから
というような理由の方が本心でしょう。
つまり親自身も、なぜ学校に行くのかという答えを持ってはいないのです。
常識に従っているだけ。
そこから外れたくないだけなのです。
学校のクラスでぼっちになりたくない子供の心境と同じ。
親というキャラを演じているだけなのです。
というのは少々、言い過ぎかもしれませんが、親自身も「なぜ学校に行かなければならないのか」という答えは持ってはいないはずです。
その答えを持っていないからこそ、子供に「とりあえず学校に行け」と矯正することしかできない親になってしまうのでしょう。
時代の流れと共に変わる答え
「なぜ学校に行かなければならないのか」という質問の答えは、時代の流れと共に変わってきます。
たとえば「企業戦士」とか「24時間戦えますか」というような言葉が流行っていた時代においては、学校に行って子供の個性を均一にした方が企業にとってはそれが有効に働いていた時代だったのです。
ある程度決められた仕事、画一化された仕事に個性を出されては困りますからね。
また、まだインターネットが普及していない時代だったので、学校に行く以外に勉強する方法があまりなかったのでしょう。
こういう時代においては確かに、学校には行っておいたほうが良かったわけです。
ところが、インターネットが普及して学校以外の場所でも普通に学べる環境が当たり前になった現代においては、学校に行かなければならない必然性は前よりも格段に下がっているのです。
しかも現代は、画一化された個性ではなく、創造性を持った人材が求められているのです。
昔とは真逆ですね。
なのに、未だに学校は、子供の創造性を殺すような画一的な教育をしているわけです。
時代の流れについていけずに、昔の教育のまま、惰性の慣習に従っているだけなのです。
そういう場所に子供を通わせ続け、創造性がない人間にして将来、子供が路頭に迷ったとしても、学校側は全く責任をとろうとはしないでしょう。
最終的に人生の責任は自分が取らなくてはいけない
結局のところ、学校に行こうが、行くまいが、最終的に人生の責任は自分が取らなくてはいけなくなってくるのです。
親の言う通りに学校に行き続けて、創造性がない人間になってしまっても、親も学校も誰も責任をとってはくれないのです。
私の場合で言えば、思考停止して学校に行き続けることによって「一生、人に会いたくない」と思うようになってしまいました。
でもその責任は自分が取らなくてはいけないのです。
私は学校に無意味に行き続けたことを後悔していますが、
逆に、学校に行かなかった、行けなかったことを後悔している人もおそらくいるのでしょう。
どちらにしても、その選択の責任は自分が取らなくてはいけないのです。
本当なら学校というのは、子供に選択の幅を広め、責任の自覚を教える場所だと思うのですが今の学校は、子供の選択の幅を狭め、無責任を教える所になっているのでしょう。
それでも「学校に行くのが楽しい」と感じている子供であれば、学校に行き続けてもいいのかもしれません。
でも「死にたいほど学校に行きたくない」と思っている人までそういう学校に行き続けるのは、メリットが一つも見当たらないのです。