好きなことが分からないのは当たり前
昨日の記事のように「誰かに評価される勉強」ばかりしていても、「自分の好きなこと」というのは見えてはきません。
「誰かに評価される勉強」というのは大抵、自分には興味が持てないものですよね。
その興味が持てない勉強を延々としていても「自分の好きなこと」というのは見えては来ないのが普通なのです。
だから「誰かに評価される勉強」ばかりしている人たちにとって、「好きなことが分からない」状態になるというのは当たり前の話なのです。
好きなことが分からなければ労働するしかなくなってくる
「好きなこと」が分からなければ、「好きではないこと」をして生きていかなくてはならなくなってきます。
つまり「労働」ですね。
「誰かに評価される勉強」ばかりしていると、最終的に「労働」するしかなくなってきてしまうのです。
労働は長い
労働は長いです。
学生時代でも小学校で6年、中学校で3年、高校で3年、大学で4年と、全部合わせても16年くらいですよね。
私は大学に行ってないので12年でしたが、それでも長いと感じました。
しかし、「労働」の長さはこの比ではないのです。
これから年金がもらえる年齢がどんどん引き上げられていって(もらえたらの話)、65歳から70歳へ、70歳から80歳へと伸ばされていったとすればどうなるでしょうか?
仮に20歳ごろから働き出して、80歳まで働くとすれば60年です。
60年ですよ。60年。
私の場合で言えば学校に行っていた期間のちょうど5倍です。
しかも、体がどんどん弱っていく中でそれだけの年数を「労働」で生きていかなければならないとするなら、確実に不幸な人生になってしまうと思います。
不幸な人生を送らないためには
そうした不幸な人生を送らないためには、この60年という期間を「労働」ではなく、「好きなこと」を仕事にしていく必要があるのです。
しかし、これが難しい。
なぜ難しいかといえば、それは最初に書いたように、「誰かに評価される勉強」ばかりしてきてしまったからです。
「誰かに評価される勉強」ばかりしていても、自分の「好きなこと」というのは見えてはこないのです。
つまり現状の教育では、学校の勉強(誰かに評価される勉強)を真面目にすればするほど、「自分の好きなこと」というのが分からなくなっていってしまうのでしょう。
言われたことしかできない人間になっていってしまうのです。
そして「労働」しかできない人間になってしまう・・・
さらに不幸な話
それでも今までなら、「労働」さえしていれば、不幸なりにも生きていけたのだと思います。
しかし、これからどんどん技術が発達していって、単純な労働は機械がやるようになっていけば、今度はその「労働」という仕事すらなくなっていってしまうのでしょう。
そうなった時、「労働」しかできない人間は生きていけるのでしょうか。
「労働してなんとか生きていける人生」すら送れない可能性があるのではないでしょうか。
「自分が評価する勉強」をして希望を見出す
そうならないために、「誰かに評価される勉強」ではなく、「自分が評価する勉強」をしていく必要があるのです。
「誰かに評価される勉強」ばかりしていたら、「好きなことが分からない」という状態になるのは、むしろ当たり前なのです。
不幸な話ですが、今の学校はそうした「好きなことが分からない人間」を大量に生産する場所にしかなっていないのだと思います。
だからこそ、学校でやる「誰かに評価される勉強」ではなく、自分がやりたいと思う「自分が評価する勉強」をしていく必要があるのです。
そしてその「自分がやりたいと思う勉強」を極めていけば、結果的にそれが「好きなこと」につながっていき、「好きなことで生きていける」状態になれるのだと思うのです。