人の目がまともに見れない真の社会不適合者、略して真者(まもの)です。
人の目が見れない理由
私は人の目がいまだに見れません。
努力すれば多少は見ることはできるのですが、努力しなければ相手の目を見ない状態が普通になってしまいます。
そんな状態でずっと生きてきたので、もはや今さら、人の目を見れるようになろうという気すらおきなくなってしまいました(笑)
というか、できればもう人と一生、会わないで生きていきたいです。
とはいえ、「なぜ自分はここまで人の目を見れない状態になってしまったのか」ということを振り返ることは他の人にとっても、それなりに価値があると思うので、自分がそうなっていってしまった原因を探っていこうと思います。
人の目を見ないのは相手のことが嫌いだから、ではない
まず、よく誤解されるのが「人の目を見ないのは相手のことが嫌いだから」というのがあります。
人の目を見れない私から言わせると、これはとんでもない誤解です。
実際は、そんな上から目線な理由で人の目が見れないのではなく「相手の目を見て、相手を不快にさせてはいけない」というような下から目線な理由で人の目が見れないのです。
決して「相手のことが嫌いだから」というような理由ではありません。
人の目が見れなくなった大元の原因
なぜ私がこう思うようになっていったのか、ということを振り返っていくと、大元の原因になっているのは母親との関係にあるのだと思います。
私の母はよく「相手の目を見なさい!」「睨んででもいいから相手の目を見なさい!」と子供の頃の私によく命令してきていました。
しかし、子供の頃の私はそう言ってくる母親の存在が恐怖の対象だったので、その母親の目すらまともに見ることができませんでした。
母の目を見て、余計に母を怒らせるのが怖かったからです。
それから時は流れ、大人になって母親もそれほど恐怖の対象ではなくなったのに、私はいまだに母の目を見れていないことに気づいたのです。
これには自分でも驚きました。
私は母親と目を合わせない状態が普通になりすぎていて、そのことに自分で気づいていなかったのです。
親との関係でできていないことが、他人との関係で自然とできるようにはならないのです。
私はもう諦めた
それでも普通の人なら、なんとか努力して人の目を見れるようになろうと思うのでしょう。
でも私はそういう方向の努力は諦めました。
なぜなら、私はもう人とコミュニケーションを取りたいとは思わないから。
よく考えてみたら、今まで親とも他人ともコミュニケーションを取ってきて、楽しいと感じることがほとんどなかったです。
そんな私が人の目を見れるようになったところで、コミュニケーションが楽しいと感じることはないと思うので、無駄なことはもうこれ以上したくないのです。
社会不適合のまま生きていく
人の目が見れないで悩んでいる人は、人の目を見れるようになって、社会に適応しようとしている人なのでしょう。
でも私はもうその道を諦めました。
人の目を見れるようになって、社会に適応して生きていく道を諦めました。
私は人の目を見なければいけない状況を徹底的に避けて生きていきます。
つまり人に会わないで生きていく、社会不適合者のまま生きていくということです。
人に会わなければ、人と目を合わせなければいけない状況は発生しなくなるのです。
かなり後ろ向きな解決方法ですが、私自身に人に会いたいという欲求がまったく湧いてこないので、これが自分にとってベストな解決方法なのだと思います。
地獄とは距離をとる
「地獄とは他人のことだ」
みたいなことをどこかの哲学者も言っていたように、地獄が発生してしまうのは不用意に他人に干渉するからなのでしょう。
- 未熟な人間が、他人に干渉すると容易に人を傷つけるのです
あるいは、
- 未熟な人間が、他人に干渉されると容易に傷ついてしまうのです
私は後者の未熟な人間だったので、本当ならもっと早く、他人と距離をとればよかったのですが、自分の心を無視して人に会い続けてしまったので、もはや人に会いたいとはまったく思わなくなってしまったのでした。
私の場合は手遅れですが、傷つきやすい人は、無理に人に会おうとしない方がいいのだと思います。
嫌われたくないとか、そうした理由で相手に合わせても、自分がすり減っていくだけで、いいことがあまりありません。
それよりも、自分の好きなこと、自分の世界を大切にしていった方が結果的に人といい距離感の関係を築けていけるようになると思います。